ヤマト運輸の戦略・・

「イノベーション」とは、必ずしも画期的な発明のことではありません。既存の技術やアイデアでも、その組み合わせ方次第で、イノベーションを起こすことができます。 そのためには「行動と思考を変える」ことが重要なのですが、新しい方向性や新しい働き方を頭では理解していても、既存の商習慣や行動様式から抜け出せないことがあります。

また、異なる価値観や思考、専門領域などを持つ多様な人々の集まりをひとつの方向性にまとめ上げるのは容易ではありません。

事実、目的や方向性は正しくても、人・組織の問題や外部環境のせいで、イノベーションへの取り組みが失敗に終わるケースが多々あります。ひるがえせば、イノベーションを成功させる秘訣は、人や組織をしっかりとマネジメントし、外部環境の規制と戦う力強いリーダーシップを発揮することなのです。

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競争に勝てず 新市場に活路 ―― 「宅急便」の誕生

ヤマト運輸といえば、誰もが知る大手運送会社ですが、そんなヤマト運輸にも苦境に喘いだ時代がありました。戦前こそ業界第一位でしたが、昭和20年代、30年代は赤字すれすれの経営が続き、業績が低迷していたのです。

競争相手である他の運送会社は、東京―大阪間のノンストップ定期路線を開設して荷物を集めていました。一方、当時の社長は「トラックの性能からみて、100キロぐらいが限界だから、それ以上走るということは会社をつぶしてしまう」と考え、長距離輸送に乗り出そうとしませんでした。

1960年、ようやく東京―大阪路線を開設しましたが、他社から5年、最先発の会社からは約10年も後れを取っていました。そのため、すでにほとんどのお得意は押さえられていて、荷物は一向に増えません。赤字を克服しようと始めた事業が、むしろ赤字転落の原因になりかねない気配でした。

しかし、お中元やお歳暮の配達を扱っていたことがいいヒントになりました。このマーケットは商取引と無関係です。ライバルは郵便小包と国鉄の小荷物、つまり「官」の独占市場で、民間のトラック会社はまだどこも手をつけていませんでした。

この分野に着目したのが「クロネコヤマトの宅急便」の始まりです。それまでは同業他社と熾烈な競争を繰り広げていましたが、こちらに移れば競争相手は郵便局と国鉄ですから、どう考えても楽だったのです。

家庭向け輸送のデメリット

ヤマトは東京・中野区のある町で2000軒ほどの家を訪ねて回り、「昨年1年間で何か小荷物を出しましたか」と調査しました。すると、大体どこの家庭でも、1年に1個、2個くらいの荷物は出していることがわかりました。マーケットは確かに存在したのです。

そこで、60年代の終わりから70年代にかけ、どう事業化するかを懸命に考えました。結局、実現まで4年、5年も悩むこととなり、なかなか答えが出ませんでした。なぜなら、商業貨物の輸送は「目に見える」のに対し、家庭を対象にした輸送の仕事は非常に偶発的で、「見えない」部分が多過ぎたからです。

商業貨物の場合は工場、倉庫、問屋、小売店と、発送元も配達先もすべて明瞭です。配達ルートも決まっていて、毎日毎日反復して荷物が流れます。つまり定型業務の繰り返しで、しかも荷物が出るのは工業地帯、行き先は大都市と、効率的に運送できます。

一方、家庭から出る荷物は不定期どころか単発で、そのうえ送り先もバラバラ。これでは業務効率が悪く、コストが高くなってしまいます。したがって、「採算が合わない」「実行しようと考えるのはおかしい」というのが世間一般の常識であり、社内の風潮でもありました。

デメリットをメリットに転換

けれども、よくよく考えてみると家庭向け輸送ならではのメリットも見つかりました。それは、家庭から出る荷物は一軒ずつを見ると偶発的に思えますが、全体で見てみると需要が安定していたことです。

商業貨物は競争が激しいため運賃単価が低く、景気の影響も受けます。また、季節変動が必ずあり、しかも支払いは値切られたうえ180日の手形という状況でした。それに比べ、家庭向けなら運賃の単価は商業貨物の約10倍と魅力的です。

もちろんライバルの郵便小包以上に高くはできませんが、日銭が入ります。問題は、ビジネスとして成り立つか否かの一点にかかっていました。

事業化できないのは欠点があるからではなく、何らかの障害があるからです。それさえ突破できれば、あとはメリットに転じられる可能性が十分ありました。

「輸送の商品化」を目指して

では、乗り越えるべき壁とは何か。それはもちろん、事業の採算性です。トータルで儲からなければ何の意味もありません。収入面では、郵便小包の料金が上限になりますから、問題は経費でした。

ある町で1日に100個集荷すれば、荷物1個あたり、トラックの運行経費の100分の1で済む計算になります。もしも1個しか集荷できなければ、べらぼうに高くつくでしょう。要は、車両の運行効率に左右されるので、採算がとれるかどうかは荷物の出る「密度」で決まります。

荷物の配送依頼をどれだけ増やせるか。主な顧客が家庭の主婦だということを考えれば、いかにわかりやすいサービスを提供するかが大事なポイントでした。荷造りの仕方や伝票の書き方など、商品の仕組みを極力シンプルにするのです。

切り札は「均一料金」と「翌日配達」

そこでヤマト運輸は均一料金制度を打ち出し、誰にでもよくわかる料金体系にしました。さすがに全国一律にはできませんでしたが、関東、中部、近畿などの地方ブロック単位での均一料金制を導入したのです。

隣接するブロック、例えば東京都からの発送ならば関東、中部、東北は同じ料金、近畿だとひとつ先のブロックなのでまた別の料金、といった具合です。この単純明快な料金表をビラに印刷して配りました。

もうひとつ決め手になったのが、翌日配達のシステムでした。社内では反対が相次ぎましたが、結果的にこの仕組みが顧客の心を捉えたのです。 商業貨物の場合、最低在庫を確保しつつ、多少余裕を持たせて発注しますから、一日遅れて文句を言われたとしても実害はないでしょう。ところが、家庭から出る荷物だとそうはいきません。

例えば、海外に行く我が子のために、親がパスポートを下宿先へ送る。結婚式に参列するための洋服や着物を送る。何が何でも、期日に間に合わせなければならない品物が必ずあります。送り主は翌日配達を信じて利用するので、少しの遅れも大問題です。

どれがそうした荷物なのかわからない以上、全部の荷物を翌日に配送しようということなのです。 それを実行するのは、もちろん容易なことではありませんでした。例をひとつ挙げれば、「福島県まで配達」といっても、福島市や郡山市だけが福島ではありません。会津若松市や奥只見だって福島なのです。これらをすべてカバーするには大変な苦労がありましたが、それでも「県庁所在地だけ」などという横着な考えは捨てて、全国どこでも翌日配達にしました。

戦略思考が大ヒットを生む

戦術とは、目の前の毎日の闘いに勝ち、シェアを上げるための考えです。これに対して、明日の需要をいかに創り出すかが戦略です。ヤマト運輸の戦略は、完全なネットワークを構築することでした。

宅急便を始めて3年、5年と経つと、利益が出るようになりました。途端に同業他社が一斉に参入、クロネコに対抗していろんな動物マークも登場し、70年代後半には35社にもなりました。

それでも、誰が来ても競争にならない、絶対に大丈夫という自信がヤマトにはありました。「密度を濃くする」「翌日配達体制を完璧なものにする」という戦略に基づいて行動していたからです。

ゼロからスタートした宅急便は、98年度の取扱個数で7億7100万個に達し、市場の約43%のシェアを占めるまでになりました。輸送サービスの商品化に何が必要かを考え、買い手の実態や要望に合わせて絶えず体制を変化させてきたからこそ、これだけの成長を実現することができたのです。

参考文献:「小倉昌男の経営哲学」(日経ベンチャー 著 / 日経BP社 )

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