無理を超えた向こう…

日本は自動販売機大国と言われます。扱う商品も多様ですが、定番はやはり飲料でしょう。1970年頃、飲料の自動販売機といえば「夏場に冷たい商品を売るもの」と誰もが思っていました。

そんな常識を覆したのが、ポッカコーポレーション創業者・谷田 利景です。あるとき、谷田氏は社用車で出張中、サービスエリアに寄りました。運転手の眠気を覚ますためでしたが、店には行列ができており、コーヒーを飲んで車に戻るのに30分もかかりました。

「車の中で本格的なコーヒーが飲めたら時間節約になる」と考えた谷田氏は試行錯誤してホット用の缶コーヒーを開発。けれど、アイスコーヒーの需要も無視できません。それならばと考案したのが、夏は冷たい缶コーヒーを、冬は温かい缶コーヒーを販売する、世界初の「冷温兼用」自販機でした。

無理だという声に負けず実用化に成功すると、缶コーヒーの人気は急上昇、「コーヒーは喫茶店で飲むもの」という既成概念を打ち破ることができました。このように、チャンスはいつも常識の向こう側にあるのです。

◆◇◆◇◆      ◆◇◆◇◆      ◆◇◆◇◆

常識破りの経営者

「数々の流通革命を起こしてこられましたが、その中でこれは絶対に無理だと思ったことは何ですか?」 記者にこう問われ、鈴木敏文氏は微笑みました。「毎日、無理なことだらけです。」しかしすぐに、「いや、世の中、絶対に無理なことはないんです。」ときっぱり言い切りました。

鈴木氏はセブン&アイ・ホールディングス代表取締役会長兼CEOで、日本にコンビニエンスストアを広め、小売業界を激変させた人物。コンビニ最大手のセブン‐イレブン・ジャパンをはじめ、イトーヨーカ堂、そごう、西武百貨店などを傘下に持つセブン&アイは、既存業態の枠を超えた日本最大の総合流通グループであり、年間売上高は9兆円にも上ります。

彼は「心理で動く顧客に理屈で接してはならない」という持論に基づき、固定観念にとらわれない発想で業界をリードしてきました。周囲の大反対にも負けず、常に挑戦を続けてきた鈴木氏の歩みは、そのまま「無理」を「可能」に、そして「成功」に変えてきた歴史なのです。

徹底した努力と工夫で軌道に… コンビニ黎明

1974年、セブン‐イレブン日本1号店が東京に開店しました。イトーヨーカ堂社員だった鈴木氏が、このアメリカ発祥の小さな店に着目、ライセンス契約を結んだのが始まりです。大型スーパー隆盛の時代、あえてコンビニという形態に打って出ることに周囲は反対しましたが、彼には考えがありました。

「大きいことはいいことだという高度成長期の経験則にとらわれていても仕方ない。労働生産性や商品開発の価値を高めれば大型店と共存共栄できるはずだ。」 日本の暮らしに根ざしたファストフードを、との視点から、おにぎりや弁当、おでんなどを商品化。

「家で作るもの」だったこれらを「買う」消費スタイルを確立し、市場に根付かせました。また、商慣習を覆して競合商品の共同配送を推進するなど物流体制の改革にも尽力し、配送効率の大幅な向上を実現。その結果、より新鮮で高品質な商品を提供できるようになりました。

こうした取り組みが功を奏し、出店数はわずか2年で100店舗、1980年には1000店舗と、事業は急速に拡大。現在では国内だけで16000店舗以上、アジアなどの海外店舗も合わせると52000店舗以上と、世界最多のチェーンストアに成長しています。

1991年には、多角経営の失敗で傾いたアメリカの本家セブン‐イレブンの株式を取得して子会社化、再建に乗り出しました。当時、アメリカではスーパーが24時間営業を始め、安売り戦略を強めていました。価格競争に巻き込まれたコンビニはどのチェーンも危機に陥っており、マスコミや学者たちは「コンビニ終焉論」を唱えていました。

鈴木氏はそれでも、変化に対応できる仕組みにすれば勝機はあると考え、何度も渡米して幹部や社員たちの意識改革を進めました。日本と同じ商品管理法を採用し、店員自らが「明日は何が何個売れる」と仮説を立てて発注するようにしました。この「単品管理」の徹底で、改革3年目には黒字転換。創業以来の「顧客のニーズに応えるのが小売業のあるべき姿」という信念が国を問わないことが証明されたのです。

小売業界初の銀行設立

最も反発を受けたのは、「セブン銀行」設立のときだったそうです。 「周囲は皆、素人が銀行をやってもうまくいくはずがない、という見方でした。メインバンクの頭取さんが私のところに来られ『やめたほうがいい。あなたが失敗するところを見たくない』とおっしゃったくらいです。」

銀行業には免許も必要で、無茶な取り組みだと誰もが思いました。けれども、80年代後半から開始した電気・ガス料金収納代行の取扱件数や金額が年々伸びていたことから、コンビニでお金を下ろす顧客ニーズは確実にあると鈴木氏は察知していました。平日の午後3時に閉まってしまう銀行の代わりに、近所のコンビニで日曜でも夜中でもお金を下ろせたら、どんなに便利でしょう。

かろうじてATM設置に賛同する銀行があり、共同で銀行設立プロジェクトチームを組みましたが、メンバーは沈んだ様子で帰ってきます。その姿に鈴木氏は「失敗してもいいじゃないか、失敗も勉強のうちだよ。」と声をかけました。

風向きが変わったのはトップが決まってから。元日本銀行理事で、旧日本長期信用銀行の頭取として幕引きした安斎隆氏と面会した鈴木氏は直感でこの人だと決め、「引き受けてもらわなければ困ります」と即答を求めました。

こうして組織の姿が見えてくるとチームに活気が生まれ、流通畑や金融畑などそれぞれの知識を生かして、監督官庁との折衝、提携金融機関の確保と課題を克服していきます。ついに銀行業の予備免許を取得し、小売業初の銀行を設立しました。

2001年誕生のこの銀行は、利用者が店内のATMを使って金融機関からお金を引き出すときの手数料を収益の柱にするナローバンクでしたが、たった3年で黒字転換に成功。「従来の銀行がハイヤーなら、我々はどこでも乗り降りできる乗り合いバスに」という明確な方針、徹底した顧客視点の賜物でした。セブン‐イレブンでお金が下ろせる手軽さが受け、利用者が急増していったのです。

前代未聞のPB商品

2007年には、セブン&アイ・ホールディングスの共通プライベート・ブランド(以下PB)「セブンプレミアム」を発表。グループ内のコンビニ、スーパー、百貨店の責任者がずらりと並ぶ異例の記者会見が開かれました。集まった記者たちは「コンビニ商品をスーパーで売る?」「ヨーカ堂の商品が百貨店で売れるはずがない。」と極めて否定的でしたが、それは内部でも同じでした。

セブン‐イレブン側は「私たちには創業以来のノウハウがあるが、スーパーや百貨店はメーカーが作ったものを仕入れて売る。歩んできたスタイルが違う。」と共同開発に懐疑的でしたし、他方では「男性客が多いコンビニ商品を価格に厳しい主婦が買うとは思えない」という不満がありました。

そんな不協和音は鈴木氏の耳にも入っていましたが、「価値のある商品なら、コンビニでもスーパーでもどこでも売れるはずだ。」と一喝、強引にプロジェクトを進めさせました。

異業種社員でチームを結成、しぶしぶ商品開発をスタートすると、戦略が異なるからこそ多くの学びがあり、視野が広がって、新鮮な手ごたえがありました。進んでノウハウを共有し、それまでコンビニでは売れ筋でなかった洗剤や冷凍食品も開発しました。結果は大ヒット。今では年間売り上げ10億円を叩きだす商品が100品目以上あります。

勝因は、「安さが武器」というPBの意義を根底から覆したこと。消費飽和時代の「上質なものにはお金を出してもいい」という潜在的なニーズを掘り起こし、「PB=価値あるもの」へとシフトさせたのです。

時代とともにニーズも変わります。かつてコンビニは「若者の店」でしたが、多忙な主婦や高齢者など「買い物弱者」が増え、利用者層や消費行動に大きな変化が表れていました。

「もっと地域生活に密着した身近な店としての役割を果たすべき」と考えた鈴木氏は品揃えを見直し、"毎日の食卓"に必要な食材を置いたり惣菜を増やしたりと速やかに方向転換を図りました。セブンプレミアムはその一環で成長してきた、いわば生活応援ブランド。暮らしに近い品揃えで新規顧客を獲得したのでした。

不思議なことに、これほど確固たる経営哲学を持ちながら、昔から流通業には関心がなかったと鈴木氏は言います。だから、いまだに素人視点を持ち続けているのだと。顧客心理やニーズをいち早く見抜き、無理を無理と思わず挑戦し続けられるのは、そのおかげなのかもしれません。                             

参考文献:『AERA』(朝日新聞出版) 2014.1.13号「無理を超えろ、無理を狙え」

 ◆ エッセーの目次へ戻る ◆ 
 ◆ トップページへ戻る ◆