企画力とは

最近、便利な機器、ソフトが次々と登場しています。それらを活用した企画力が問われる時代になっています。では企画力を、どうやって身につけたらいいのでしょうか。企画力次第で、新しいサービスを生み出し、新しい事業も展開できます。切り口と発想力が相乗し企画力が向上します。

これを野球に当てはめると、しっかりと打つ、投げる、捕る技術を学び、なおかつ、その技術を活かすために、体力をつけ、筋力をアップしなければいけません。 つまり、技術をみがき、運動能力を向上させる必要があります。 「企画力」にもこれと同じことが言えます。

切り口を学びながら、一つのキーワードから連想する発想力を鍛えなければ企画力は上達しません。企画力をアップさせるには、巷に溢れるアイデア創出法などの方法論を覚えたり、企画力がアップする本を読んだりするだけでは難しいようです。

◆◇◆◇◆      ◆◇◆◇◆      ◆◇◆◇◆

企画力とは「物語のアート」

今後、企業、市場、社会で、何が起こるか。そのとき、我々に、いかなる好機が訪れるのか。では、その好機を前に、我々は何をすべきか。その結果、我々は、どんな成果を得られるか。

この「物語」を魅力的に語ることによって、面白いと感じ、想像力を掻きたてられ、様々な智恵が湧き、行動に駆りたてられる。そして、その「物語」を聞き、多くの人々に、深い「共感」が生まれてくる。 そうした「共感の物語」を語ることによって、プロフェッショナルは、人間や 組織を動かすのです。

では、どのような形で、プロフェッショナルは「物語」を語るのか。 その「物語」が魅力的に語られたものが企画書です。 「企画」とは、上司や経営トップ、他部門や他企業、顧客や消費者に対して、新しい事業のビジョンや戦略、新しい商品のアイデアやコンセプトなどを提案する行為のことです。「企画」のすべては「企画書」というものに凝縮されます。いや、凝縮ではない、結晶されると言うべきでしょう。

すなわち、プロフェッショナルは、「魅力的な物語」、「共感の物語」としての「企画書」を創り、その企画書によって、それを読む「人間」を動かし、「組織」を動かします。「技術」と「心得」の結びついたものが「アート」です。 「技術」とはスキルやセンス、テクニックやノウハウなどと呼ばれるものです。

プロフェッショナルが本当に優れた力を発揮するためには、単に「技術」を身につけただけでは不十分です。身につけた「技術」の奥に、しっかりとした「心得」が具わっていなければならないのです。

例えば、プロフェッショナルは企画の「プレゼンテーション」において、読みやすい資料や巧みな話術、力強い発声法などの「技術」だけで、その力が発揮されているわけではありません。

その奥には、必ず確固たる「心得」があります。聴衆に対する謙虚な気持ち、分かりやすく説明しようとする親切さ、相手に伝えようとする熱意など、正しい心の姿勢や心構えを身につけていけなければなりません。 知識と知恵との関係を注意深く心得ておくことが前提になります。

「知識」を学んで「智恵」を掴んだと錯覚する

誰もが簡単に、優れた「企画書」を書ける手引きやマニュアルなど、存在しません。そもそも、そうした手引きやマニュアルを求める「安易な精神」こそが、腕を磨いていくときの「最大の落し穴」になってしまいます。

たしかに、いま、世の中には、プロフェッショナルのスキルやテクニックを、分かりやすく語った書籍や雑誌が溢れています。そして、それを語る方々も、それぞれに努力して腕を磨き、それぞれの世界で実績を上げてきた方々です。

しかし、それにもかかわらず、そうした書籍や雑誌をいくら読んでも、プロフェッショナルのスキルやテクニックがなかなか身につきません。その壁に突き当たっている読者が多いのも事実です。では、なぜ、そうした壁に突き当たってしまうのか。その理由は明確です。

「知識」を学ぶことと、「智恵」を掴むことは違うということです。 なぜなら、プロフェッショナルの「技術」とは、本来、「言葉で表せない智恵」です。プロフェッショナルのスキルやセンス、テクニックやノウハウとは、永年の体験や厳しい修練を通じてしか掴めない、「体で修得する智恵」から得たものです。

暗黙知

「言葉で表せない智恵」とは、科学哲学者のマイケル・ポランニーが『暗黙知の次元』という著書で「我々は、語ることができるより、多くのことを知ることができる」と述べていますが、我々が身につけているスキルやセンス、テクニックやノウハウなどの「技術」は、まさに、この「暗黙知」であり、「言葉で表せない智恵」なのです。

しかし、少し言葉を上手に扱えるプロフェッショナルなら、それを「言葉で表された知識」として語ることはできます。「語り言葉」や「書き言葉」を使って、誰にでも分かりやすく表現し、説明することはできるのです。

そのスキルやテクニックを巧みな言葉や見事な言葉で表現した書籍や雑誌を読むと、永年の体験や厳しい修練によってしか身につかないものであるにもかかわらず、それらの技術が身についたような錯覚をしてしまうのです。

例えば、そのことを教えてくれる面白いエピソードがあります。 かってプロ野球の大打者であった落合博満氏が、あるテレビで試合の解説をしていました。 その日のピッチャーは、実に切れ味の良いフォークボールで攻め、次々と三振の山を築いていく。それを見たアナウンサーが、落合氏に聞きました。

「落合さんなら、あの鋭いフォーク、どう打ちますか」その質問に対して、 「ああ、あのフォークを打つことは、できますよ。あの球は、鋭く落ちるから、落ちてから打ったのでは、打てない。だから、落ちる前に打てば、良いんですよ」 落合氏の見事な解説に、簡単に自分でもそのフォークが打てるように感じてしまいます。

言うまでもなく、これは大きな錯覚です。この落合氏の解説をいくら感心して聞いても、決してそのフォークは打てません。 それは当然です。フォークの打ち方を、どれほど分かりやすく「言葉で表された知識」として学んでも、それだけではフォークを打つための「言葉で表せない智恵」は掴めないからです。

それを掴むためには、やはり、徹底的な打撃の訓練と実戦の経験が必要です。そうした体験を通じて「頭で理解した知識」を「体で修得した智恵」に深化させなければならないのです。

このエピソードは、高度な運動神経や強靭な筋力が求められるプロ野球の話ですから、「頭で理解した知識」と「体で修得した智恵」の違いは分かりやすいでしょう。 しかし、「企画力」や「営業力」、「会議力」や「交渉力」などの分野では「頭で理解した知識」と「体で修得した智恵」の区別が難しく分かりにくいのです。

世の中にプロフェッショナルのスキルやテクニックを語った書籍や雑誌が溢れているにもかかわらず、そのスキルやテクニックを実際に身につけた人が少ないことの理由です。

「知識」を学んだだけで、「智恵」を掴んだと錯覚してしまいます。 そして、これは、スキルやテクニックなど、プロフェッショナルの「技術」についてだけの警句ではありません。マインドやスピリットなど、プロフェッショナルの「心得」については、最も、「知識」と「智恵」の混同が起こりやすいと言うことを念頭に置かなければなりません。

参考文献:『企画力』 (田坂広志 著/ PHP文庫)

 ◆ エッセーの目次へ戻る ◆ 
 ◆ トップページへ戻る ◆