思考するとは・・

IBMはTHINK(考える)をスローガンにしています。考える力が大事だとよく言います。 さて、思考力はおよそ具体的思考と抽象的思考に大別されます。抽象化とは、複数の物事の共通点を見つけ、ひとつにまとめます。物事を大きな概念で、広い視点で捉えることです。一つ上の、大きな視点で捉えることで、物事の本質が見えてきます。

有意義な打ち合わせでは、具体と抽象の行き来が多く、一度、抽象を挟むことで、話し合いしている課題の普遍性が観えてきます。具体を抽象化し、抽象概念を再度、具体化している様子は、はたから見ると雑談に見えるかもしれません。

具体と抽象を行き来して、深く想いを行っていくことで、ぴったりの比喩が言葉になってでてきます。 具体と抽象を往復する能力を身につけるためには、話し合いの内容を比喩しながら説明できるように意識することが大切です。

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「抽象」と「具体」の往復運動

ビジネススクールで勉強しようという人の動機として、「具体的で実践的な知識を習得したい」という声をよく聞く。 ビジネスの世界では「具体」は実践的で役に立ち、「抽象」は机上の空論で役に立たない、と決めつけてしまうような風潮がある。とんでもない思い違いだ。

具体も抽象もどちらも大切だ。抽象的な思考がなければ具体についての深い理解や具体的なアクショは生まれない。抽象と具体との往復運動を繰り返す、思考様式がもっとも実践的で役に立つ。

抽象と具体を行ったり来たりする振れ幅の大きさと往復運動の頻度の高さ、そして脳内往復運動のスピード、これが「地アタマの良さ」の定義となる。

もちろん抽象的なモデルや論理だけでは仕事にならない。仕事は常に具体的なものである。しかし、抽象化や論理化の力がないと、思考の目線が低く、視界が狭くなり、すぐに行き詰ってしまう。具体の地平の上をひたすら横滑りしているだけの人からは、結局のところ具体的なアクションについても平凡な発想しか生まれない。そうした人には戦略を構想できない。

実務経験がある人でも、具体的な経験はしょせんある仕事や業界の範囲に限定されている。いまそこにある具体に縛られるあまり、抽象と具体の往復運動ができない人は、ちょっと違った世界に行くとさっぱり力が発揮できなくなってしまう。

また、同じ業界や企業で仕事を続けていても、抽象化や論理化ができない人は同じような失敗を繰り返す。ごく具体的な詳細のレベルでは、ひとつとして同じ仕事はないからだ。必ず少しずつ違ってくる。抽象化で問題の本質を押さえておかないと、論理的には似たような問題に直面したとき、せっかくの具体的な経験をいかすことができなくなる。

もちろんビジネスの現場で抽象的なことばかりでは、「じゃあ結局どうするんだ」という話になる。どんな仕事も最後は具体的な行動や成果での勝負である。ただし、具体のレベルを右往左往しているだけでは具体的なアクションは出てこない。抽象度の高いレベルでことの本質を考え、それを具体のレベルに降ろしたときにとるべきアクションが見えてくる。

具体的な現象や結果がどんな意味を持つのかをいつも意識的に抽象レベルに引き上げて考える。具体と抽象の往復を、振れ幅を大きく、頻繁に行うことが重要だ。

面白がる力

何かに継続的に取り組むためには、「意味がある」と「面白い」どちらかもしくは両方が必要だ。 その行動に目的達成の意味があると思えるとき、人は努力を投入する。「面白い」というのは、そのこと自体がその人にとっての価値があるということ。

さて、勉強ため知識をインプットしようと常日頃感じている人は多い。ほとんどの場合、その動機は「意味がある」の方ではないかと思う。海外に赴任するので、英語を勉強しなくちゃ、というケース。ここでは勉強の目的が所与である。強制されている、といってもよい。

目的を達成するための手段もはっきりしている。 しかし、このようにあからさまに勉強に「意味がある」ケースはむしろ稀だ。英語や試験のための勉強に限られる。「この分野の知識を深めたいな」というような漠然とした目的で勉強しようとするのが普通だろう。

ところが、これがほとんど続かない。漠然と「意味がある」と思って本や雑誌やネットの記事を読んではみる。しかし、勉強したところでどうなるのか、目的と手段の連鎖を実感できない。だからすぐに挫折する。

ではどうしたらいいか、話は簡単だ。勉強それ自体を面白くしてしまえばよい。「そもそも面白くないのが勉強なんだよ」という声が聞こえる。しかし、そういう人は、知識の量と質を混同している。あからさまに面白そうなことであれば、強制されなくても自然と知りたくなる。

やみくもに知識の量を増やそうとしても、面白くないのは当たり前だ。勉強の面白さは、ひとえに知識の質に関係している。上質な知識とは何か。それは「論理」である。 論理は面白い。論理の面白さを分かるようになれば、勉強が苦にならない。それどころか、自然とどんどん勉強が進む。習慣になる。

人間の仕事における満足度は、ある特定の要因が満たされると満足度が上がり、不足すると満足度が下がるということではない。これがハーズバーグの主張の核にある。つまり、満足に関わる要因と不満足に関わる要因は別モノという考え方だ。 人間が仕事に不満を感じる時とは、その仕事それを取り巻く外部環境にある。たとえば、給与、対人関係、作業条件などだ。

これらが原因で職務不満足を引き起こす。満たしたからといっても満足感につながるわけではない。 一方で、人間が仕事に満足を感じる時、その人の関心は仕事そのものに向いている。

「達成すること」「承認されること」「仕事そのもの」などだ。これらが満たされると満足感を覚えるが、不思議な事に欠けていても職務不満足を引き起こすわけではない。

ようするに、満足と不満足は1本の物差しの両極ではない。それぞれが独立の次元なのだ。満足の反対は不満足ではなく、「没満足」(満足がないという状態)ということになる。不満足の反対は「没不満足」(不満足がないという状態)だ。

大いに仕事に満足していながら、同時に不満足であるということがあり得るということだ。「達成感のある仕事だが、安月給」というケースだ。 主体的.自発的に勉強を続けるためには、とにもかくにも論理の面白さを経験で知ることが大切だ。見たり聞いたり読んだりするときに、いつもその背後にある論理を少しだけでも考えてみる。

「これ、面白そうだな」と自分の感覚に引っかかった映画を観るように、勉強と向き合える。もちろん全部が全部面白い論理を提供してくれるわけではない。映画と同じで「ハズレ」もある。しかし、だからといって一度論理の面白ささえわかってしまえば、勉強がイヤになることはない。

逆に、理論化されていれば、ことさらに新しい知識を外から取り入れなくても、自分の中にある知識が知識を生むという好循環が起こる。 この論理の有効性は人事の方面に限らない。企業変革やリーダーシップ、さらにはさまざまな政策や制度の設計にも使える論理となる。

人間の本性と折り合いがつかないことはだいたいうまくいかないと思った方がよい。「面白い」から始めることが大切だ。「意味がある」と思って始めても、知識のインプットそれ自体は面白くないことがほとんどなので、そのうち挫折する。

ただし、論理の面白さを知る。これがなかなか難しい。論理に限らず、ものごとを「面白がる力」、これこそが人問の知的能力なり仕事能力である。面白がれるようになってしまえば、だいたいのことはうまくいく。

どんな分野のどんな仕事でも、優秀な人というのは「面白がる力」の持ち主だ。面白がるのは簡単ではない。人間の資質なり能力の中でももっとも奥深くコクがあるところだ。時間をかけてでもそうした才能を開発できるかどうか、ここにアウトプットが出てくる人とそうでない人との本質的な分かれ目がある。

多くの人があからさまに面白がることでなくても、仕事や勉強に関して、自分で面白がれるようになったことが、誰にも1つや2つはあるはずだ。なぜそのことを面白がれるようになったのか。まずはその背後にある「論理」を考えてみることをお勧めする。

自分がすでに獲得している面白さの背後にある論理をたどってみれば、面白さのツボがみえてくる。まずは自分自身の面白さを理論化する。面白がる力をつけるための、二重の意味でよいトレーニングになる。

参考文献:『経営センスの論理』 楠木 建 著/新潮新書

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